本論文は、早稲田大学の釜野さおり氏による「性的指向と性自認の人口学の構築(その1)」特集の序論である。2021年度より開始されたこの研究プロジェクトは、JSPS科研費による前身プロジェクト(2016-2020年度)を引き継ぎ、日本におけるSOGI(Sexual Orientation and Gender Identity)に関する人口学的研究基盤の構築を目指している。
研究の背景として、日本におけるSOGIに関する公的統計の不在が指摘されている。2017年の参議院常任委員会調査室レポートでも「LGBTの人口規模に関する公的な統計等は存在していない」と明記され、広告代理店等による限定的なウェブ調査データが「人口規模」として誤って引用される状況が続いている。同性カップルの世帯数、性的マイノリティの人口、SOGI別の社会経済的状況等を把握できる公的統計の欠如は、エビデンスに基づく政策立案を困難にしている。
近年の重要な動きとして、2つの展開が挙げられる。第一に、2022年4-9月に内閣府男女共同参画会議に設置された「ジェンダー統計の観点からの性別欄検討ワーキング・グループ」である。このWGでは、性別欄削除が性的マイノリティへの配慮とする風潮がジェンダー統計作成を阻害する懸念から、SOGIによる格差を明らかにするための調査方法の検討必要性が提言された。第二に、2023年施行の「LGBT理解増進法」第9条に基づく学術研究推進である。同法に基づく委託事業報告書には、本研究チームが開発した「大阪市民の働き方と暮らしの多様性と共生にかんするアンケート」等で用いたSOGI把握のための設問例が掲載された。
論文では、SOGI関連の用語の正確な理解の重要性を強調している。SOGIは性的指向(Sexual Orientation)と性自認(Gender Identity)の頭文字であり、全ての人の属性を表す。性的指向には異性愛、同性愛、両性愛、無性愛等が含まれ、性自認には女性、男性、ノンバイナリー、Xジェンダー等が含まれる。出生時に割り当てられた性別と自認する性別が同じ場合をシスジェンダー、異なる場合をトランスジェンダーと定義している。
本特集の意義は、日本の人口学や量的社会学研究においてSOGIを正面から取り上げる試みがほとんど見られない中、より多くの研究者にこの課題への関心を喚起することにある。研究チームは、SOGIに関する人口学的研究を通じて差別や格差の解消に貢献することを目指しており、政策検討に必要な信頼性の高いデータ(特に政府統計に基づくデータ)の作成が急務であることを訴えている。
本論文は、従来の人口学が異性愛・シスジェンダーを前提とした分析枠組みへの批判的視座から、性の多様性を包摂した新たな人口学の構築を提唱する画期的な試みである。