国立台湾師範大学東亜学系特聘教授の江柏煒氏による「長崎と神戸の金門人コミュニティ」について、17世紀から20世紀にかけての金門人の海外移民史と日本における商業活動を詳細に分析したものです。
金門列島は閩南の九龍江口河口に位置し、17世紀中葉から19世紀にかけて台湾への主要な移民出身地となりました。19世紀後半から1949年にかけて、金門は四度にわたる大規模な海外移民の波を経験し、特に1915年以降は人口が4割以上減少(男性43.35%、女性39.06%)するほどの大規模な移住が発生しています。移民先は東南アジア各地のほか、日本の長崎や神戸も重要な目的地となりました。
長崎における金門人コミュニティでは、17世紀以降の唐船貿易時代から存在が確認されており、福済寺墓地には339基の墓碑が現存し、そのうち84基に金門出身と記されています。現存する最古の海外在住金門人墓碑は1745年に建立されており、18世紀中葉以前から相当数の金門人が長崎に定住していたことが明らかになっています。19世紀後半から20世紀初頭の代表的商号として、新頭村出身の陳国樑(1840-1908)の「泰益号」があり、日中間および南洋貿易を主軸とした広域的な貿易ネットワークを構築し、長崎屈指の商号へと発展しました。
神戸では1868年の開港後、華僑人口が急速に増加し、1887年以降は長崎を超える規模に達しています。金門山后出身の王明玉(1843-1903)が1871年に創設した「復興号」は、マッチ輸出を事業の柱として大阪に支店を持ち、中国および東南アジア市場と結びついた中核的商号となりました。王家は神戸華僑社会の指導的地位を確立し、1920-30年代には天津、大連、営口、ハルビンに支店を開き、シンガポール、ベトナム、インドネシアにも関連会社を持つ広大な東アジア貿易ネットワークを構築しました。
記事は、金門人が単なる移民集団ではなく、17世紀以来の国際的な貿易・航運ネットワークの中で重要な役割を果たし、長崎の唐船貿易、神戸の近代商業発展、さらには中国の近代化運動にも多大な貢献をした歴史的存在であり、その文化的継承と社会への影響は現在も続いていると結論づけています。