日本における排出量取引制度が製造事業所の生産性に与える影響の分析【ノンテクニカルサマリー】
1. 研究の背景と目的
温室効果ガス排出削減を目的とした排出量取引制度(ETS)は、多くの国や地域において低炭素化を進める有用な政策手段として用いられている。しかし、環境規制の導入は企業の経営活動に直接的な影響を与えるため、ETSが企業経営や事業所のパフォーマンスにどのような影響を与えるかについて十分な検証が必要である。特に温室効果ガスを対象としたETSは、製品製造に直結するCO2排出削減を求める施策であるため、企業や製造事業所の経営に大きな影響を与える可能性が危惧されている。
2. 分析対象と手法
本研究では、工業統計調査および経済センサス-活動調査における事業所調査票情報に基づき、東京都と埼玉県で行われてきた排出量取引制度(東京・埼玉ETS)が対象となる製造事業所の全要素生産性(TFP)に与えた影響について分析を行った。2002年から2016年の製造事業所パネルデータを用いて、ETS導入前、ETS導入がアナウンスされた期間(東京都:2007-2009年、埼玉県:2008-2010年)、ETS導入後の期間(東京都:2010年から、埼玉県:2011年から)の各期間におけるTFPを推計した。
3. 分析枠組みとグループ設定
東京・埼玉ETS対象事業所をトリートメントグループとし、東京・埼玉ETS非対象事業所をコントロールグループとして分析を行った。より頑健な検証のため、Staggered DiD(Difference in Differences:差分の差分法)を用いた事業所TFPの変化要因分析、および変化要因分析の頑健性を確認するためのロバストネス・チェックを実施した。これにより、ETSの導入や導入過程において製造事業所のTFPがどのような影響を受けたのかを統計学的に検証した。
4. トレンド分析の結果
対象事業所と非対象事業所の平均TFPのトレンド分析から、東京・埼玉ETSが開始された2010年、2011年まではトリートメントグループとコントロールグループのTFPの変化やトレンドは同様の動きが見受けられた。しかし、ETS導入後、トリートメントグループの平均TFPは、コントロールグループの平均TFPよりも増加傾向が見受けられる。この結果は、東京・埼玉ETS導入によってETS対象事業所のTFPが向上した可能性を示唆している。
5. アナウンスメント期間の影響
制度導入がアナウンスされたアナウンスメント期間(東京都:2007-2009年、埼玉県:2008-2010年)においては、ETS対象事業所のTFPの変化は、非対象事業所のTFPの変化と統計学的に有意な差は見られなかった。これは、制度のアナウンスメント自体では直ちに生産性の向上効果は現れなかったことを示している。企業は制度の詳細な設計や実際の運用方法を見極めてから本格的な対応策を講じた可能性が考えられる。
6. 制度導入後の生産性向上効果
制度が導入された以降は、対象事業所のTFPが有意に非対象事業所よりも向上している結果が示された。特に第1削減計画期間(東京都:2010-2015年、埼玉県:2011-2015年)において、ETS対象事業所のTFPが向上している結果が得られた。この結果は、実際にETSが運用開始されることで、対象事業所が具体的な削減目標達成に向けた効率化努力を本格化させたことを示唆している。
7. 生産性向上のメカニズム分析
ETS対象事業所のTFPが向上したメカニズムを明らかにするための追加分析を行った結果、ETS開始後にETS対象事業所の機械・装置などへの投資が、非対象事業所よりも減少している結果が示された。この結果は興味深い発見であり、対象事業所において単純に省エネや低炭素化に対する有形の投資が行われたことによってCO2排出削減と生産性の向上が両立されたわけではないことを示している。
8. 無形資産投資と効率化努力
機械・装置への投資減少にもかかわらず生産性が向上した背景には、無形資産への投資(省エネルギー、低炭素化のためのシステム改善への投資)や、設備投資以外でのエネルギー効率の改善、低炭素化の努力が行われた可能性が指摘できる。これは、ETSが企業に対して従来とは異なるイノベーションの方向性を促し、より効率的な生産プロセスの構築や運営管理の改善を通じて生産性向上を実現したことを示唆している。
9. 国際的な研究結果との整合性
一般的に、環境規制の実施は企業経営に負担をかけ、企業の国際競争力の減少が懸念される。しかし、これまでのEUなどでのETSと生産性の検証結果と同様に、日本においてもETSの対象事業所の生産性を向上させる可能性が示された。この結果は、適切に設計された排出量取引制度が、環境目標の達成と経済効率性の向上を同時に実現できる可能性を示す重要な証拠となっている。
10. 政策インプリケーションと今後の展望
日本国内で先行して実施されてきた東京・埼玉ETSの分析結果は、低炭素化のための全国的なETSの本格整備が進む中で、重要な政策インプリケーションを示す結果であると考えられる。この研究は、環境政策が必ずしも経済効率性を損なうものではなく、適切な制度設計の下では環境保護と経済成長の両立が可能であることを実証している。今後の全国レベルでのカーボンニュートラル政策やGX(グリーントランスフォーメーション)推進において、この知見は制度設計の重要な参考となる。